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ちょっとこれを読んだ上でTRPGについて思うところがあったので、指の赴くままに書いてみる。 まじでチラシの裏なので注意。 TRPGという遊びがある。 というか、俺のブログを呼んでる人には今さら何か言うこともないようなことなので、それが何かという定義論は横に置く。 問題としたいのは、プレイヤーのモチベーションである。 プレイヤーは何を望んでいるのか。TRPGの、どの辺が面白くてプレイヤーはセッションに参加するのか。 結論から先に言おう。TRPGの、いや、コンピュータRPGやMMORPGを含めたすべてのRPGプレイヤーの目的は一つに集約される。 それは「冒険をする」ことである。 この一点において、あらゆるRPGは共通している。時代がいつであろうと舞台がどこであろうと相手が誰であろうと直面する問題がなんであろうと、この一点だけは変わらない。 それは、童話的世界で童話的な物語をあそぶ「ゆうやけこやけ」も「ウィッチクエスト」も同じだ。強烈な悪人などいないし、戦うことなどないが、それでも彼ら自身の日常に起こったちょっとした冒険を行うものなのだ。 では冒険とはなにか。 平たく言うと「危険を冒す」ことである。別に自分から危険に飛びこむ必要はない。危険の方から振りかかってきてもそれは冒険だ。それは危険の程度が低くても、だ。 では危険とはなんだろう。それは自分を脅かす可能性だ。肉体的なものに限らない、身内が死亡した悲しさも自分を脅かすものだし、経済的な困窮も自分を脅かす。はく奪された名誉をそのままにしておくことも、危険と言えるだろう。 蛇足になるが、ほとんどのTRPGに乱数が用いられているのも冒険を再現するためのギミックである。なぜなら冒険とは理不尽で予測不可能だからだ。 というわけで、RPGのプレイヤーは自分の身に降りかかる危険を楽しんでいると言える。 もちろん、実在の危険ではない。仮想の危険だ。仮想の危険が楽しいのは、ジェットコースターやお化け屋敷が娯楽として存在することを考えれば分かると思う。 では、この仮想の危険を実感として感じるにはどうすればいいのだろうか。 TRPGは「見てわかる」ような怖さはない。素人の語りと乱数がすべてだ。 なので危険を感じるために一つの道具を使用する。プレイヤーキャラクターという道具である。 プレイヤーキャラクターという道具はデータで構成される概念的な道具だ。その道具にデータを作ってみたり設定を作ってみたり名前を与えたりそのキャラのようにふるまったりして、道具に感情移入する。その感情移入した道具を危険にさらすことにより、プレイヤーは危険の疑似体験をするのだ。 映画や小説の主人公に感情移入すれば、主人公の発する感情の影響を受ける。それと理屈は同じだ。 「サイコロフィクションやダークブレイズはTRPGではなくボードゲームだ」という主張がある。だがそれは違う。自ら手塩にかけたキャラクターが苦難にあい、その苦難に共感する。それだけで十分にRPGなのである。 ウォーゲームではそれはない。将棋の駒がとられたとき、その駒に起こったであろう敗北に心よせる将棋指しはいない。(まあ緑一色の遊ぶルーンバウンドはRPGそのものって気がするがw) 「自分の、自分だけのキャラクターを賭けて冒険するゲーム」これがRPGだと思う。たとえサンプルキャラでも自分で考えた設定をつけ、名前をつけてやればそれはその時に生まれた自分だけのキャラなのだ。
by kandagawa8746
| 2012-01-17 21:41
| TRPG
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